家族会のメンバー 久米昂佑くんがテレビ東京の番組「生きるを伝える」に出演しました!

生きる喜びを届けたいNPO法人エスユース代表「久米昂佑さん」

2016年3月19日放送:

中学生のときに脳腫瘍と診断され、手術と抗がん剤治療で克服する。しかしその後も後遺症に苦しめられることに。 仲間と出会い、見いだした“生きる意味”とは…。

 

番組動画です。是非、ご覧ください(*^^*)

http://www.tv-tokyo.co.jp/ikiru/movie363.html

家族会のメンバー 北東紗輝ちゃんが産経新聞の記事に紹介されました

白血病を乗り越え歌でみんなを元気に(産経新聞朝刊2014/10/22)

重い病に苦しむ人たちに元気を届けたいと歌を披露する紗輝ちゃん
重い病に苦しむ人たちに元気を届けたいと歌を披露する紗輝ちゃん

 白血病治療のために2度にわたり骨髄移植を経験し日常生活に戻った大阪市平野区の小学校6年、北東紗輝さんが、重い病に苦しむ人たちや家族を励ますために、自らの歌声を届ける活動を続けている。紗輝さんの入院生活で支えとなった音楽グループに退院後に加入したのだ。「グループは『絶対に元気になる』という前向きな気持ちをくれた。諦めないで病気と闘ってほしい」。そんな願いを込めて歌う。 

 大阪市旭区で13日に行われたがん患者を支援するチャリティーイベント「リレー・フォー・ライフ」。紗輝さんは、関西を拠点に活動するコーラスグループ「human note(ヒューマンノート)」のメンバーで、ほかのメンバーとステージに上がり5曲を披露。拍手を浴びた。

 紗輝さんは小学校3年だった平成23年11月、微熱が続くなどの症状が出たため病院で血液検査したところ、「急性骨髄性白血病」と診断された。3歳のときにも脳腫瘍で手術を受けており、再び病気と闘うことになった。

 入院し抗がん剤の治療を受けたが、吐き気が止まらなかった。さらにその後2度の骨髄移植を経験。移植によって全身に痛みが走り、激しい頭痛に見舞われた。立ち上がることや会話も難しくなり、小さな体で懸命に耐えてきた。

 そんな中、病院を訪れる複数の音楽グループが、心の支えになった。特にヒューマンノートは印象が強く、オリジナル曲「フミダシテ」などを聞き、早く病気を治し学校に戻りたいと思うようになった。

 病気と格闘のすえ1年3カ月後に退院。学校に復帰すると、入院中に感動したヒューマンノートに加わり、さまざまな病気に苦しむ人を励ますことを決めた。

 放課後や休日に練習を重ね、病院やイベントで歌声を披露。筋力が十分に戻っていないため活動には車いすが欠かせないが、母の恭子さんは「人に元気を届けながら、本人も歌から生きる力をもらっている」と語る。

 紗輝さんは入院中、病院で出会った治療中の友達と励まし合い支え合ったが、その友人の早すぎる死にも直面した。「自分には命がある。だから頑張って生きていきたい」と力を込める。将来は、歌を続けながら、今度は直接患者の世話をする側の看護師になることが夢だ。

(高瀬真由子)

 

 

家族会の皆さんが神戸新聞の記事に紹介されました

神戸新聞~治療後を生きる 脳腫瘍の子どもたち~

(1)成長期を豊かに 合併症の見極め難しく/大切な医師の技量と傾聴

(2012/06/29)

「次は20位に入りたい」昨年12月、現在小学6年の松枝千聖さん(11)=堺市=は、クラスのマラソン大会に4年ぶりに参加した。結果は30人中27位。今年の目標について聞くと、はにかみながら答えた。

 「『なりたい自分』を口にするなんて」と、母の恵美さんは娘の変化に目を見張った。1年ほど前までは考えられなかったことだった。

          ◇          ◇     

 千聖さんは、小児がんの一種、脳腫瘍を4歳で発症。小脳にできた悪性の腫瘍を手術で切除し、放射線治療と化学療法を受けた。抗がん剤の副作用で一時は全身の皮膚が黒くなった。

 7ヶ月後に退院。再発はなかったが、小学校に入ると休みがちになった。2~4年は3学期を全て欠席し、“冬眠”するように。朝は起きられず、昼過ぎまでパジャマのままで居間でごろごろして過ごした。

 恵美さんは主治医に相談。さまざまな診療科を受診したが、理由が判然とせず、「無理をさせないように」と助言され、様子を見るだけだった。

 当初、「学校が苦手なのかも」と恵美さんは疑った。だが、千聖さんは1年生の時、七夕の短冊に、こんな願い事を書いていた。「休まず学校にいけますように」

           ◇          ◇

 「本人が望むなら、何とかしましょう」。患者会を通じて知った岡本内科こどもクリニック(奈良県桜井市)の岡本新悟院長は2010年2月、あらゆる可能性を探り始めた。

 内分泌の検査や治療を試し、昨年5月、副腎皮質ホルモンに行き当った。「別名はストレス対応ホルモン。不足すると疲れやすかったり、風が治りにくかったりする」と岡本院長。千聖さんは、脳腫瘍治療の合併症でホルモンを作る副腎と指令を出す脳の働きが弱まり、十分な量が分泌されていなかった。

 不足分は薬で補うしかない。ただ、ホルモン濃度は時間とともに変動し、正常値には幅がある。その中から個人の「最適値」を探して補充量を調整するには、医師の知識と経験がものをいう。

 加えて、岡本院長は「大切なのは子どもや親の訴えに耳を傾け、生活の様子を克明に聞き出すこと」と強調。「しんどさ」や「活力」は数値化しにくいからだ。

 「成長期には、自分がどういう人間かというイメージを形作る。元気で自信を持って毎日を過ごせるかどうかに、後の人生が懸かっている」

 副腎皮質ホルモンの補充開始後、千聖さんは寒さなどのストレスがかかりやすい真冬でも学校に通えるようになった。一方で、様子を見るだけだった日々を振り返ると、大切な時間を無駄にしたようで恵美さんは心が痛んだ。

 「医師は、患者や家族と同じ方を向いて治療してほしい」

          ◇          ◇

 政府は今月8日、国の次期がん対策推進基本計画を閣議決定した。その中で、脳腫瘍など小児がん経験者への長期支援体制の必要性を指摘かつて「不治の病」といわれたが、近年は生存率が向上し、合併症や後遺症を抱えながらの生活が課題となっているためだ。兵庫県内を含む患者と家族の姿から支援のあり方を探った。

(鎌田倫子)

 

(2)家族の受容 わが子にどう寄り添えば/認められない障害の事実

(2012/06/30)

 「書いて覚えなさいっ」。神戸市垂水区の主婦鈴木圭子さんは思わず声を荒らげた。

 現在中学2年の長男笙太君(14)は、保育園の時はしっかり者だったが、小学校低学年では“扱いにくい子”になっていた。漢字や九九を周囲が辛抱強く教えても、次の日には頭から抜けていた。授業中にパニックを起こし、声を上げて泣き出すこともよくあった。

 「わが子にどう寄り添えばいいのか、分からなかった」

          ◇          ◇

 笙太君は4歳の時に脳腫瘍を発症。手術と放射線治療を受けた。

 脳腫瘍そのものに加え、命を救うための治療も、時には脳の発育に大きな影響を及ぼす。例えば、低年齢で放射線治療を受けると、知能指数(IQ)の低下を招くことがある。また、気が散りやすい。新しいことが覚えられない。優先順位が決められないーなど複雑な脳の働きに問題が出る場合も。「高次脳機能障害」と呼ばれ、根本的な回復は難しい。

 笙太君も同障害とみられる。両親は共働きだった。退院時、主治医の「普通に生活できるよ」との説明が耳に残ったという。圭子さんは仕事に復帰し、定時で切り上げるため分単位で予定をこなした。「(仕事ができないことを)子どものせいにしたくない」と資格取得の勉強も始めた。

 緊張のいたが切れたのは、笙太君が小学2年の時。圭子さんはうつ病を発症した。

          ◇          ◇

 「どうするんだっけ・・・」。ポテトサラダを作ろうとして、ジャガイモを前に途方に暮れた。

 当たり前のことができない苦しさー。圭子さんははっとした。「(笙太くんの中でも)同じようなことが起きているのかもしれない」

 病気になって初めて、笙太くんの心に思いが及んだ。つらい気持ちにふたをして仕事に逃げ込んでいた自分自身にも。「この子と一緒にゆっくり治していこう」。肩の力が少し抜けた気がした。

 鈴木さん親子は有効なリハビリや支援機関などと出会い、笙太君の状態は少しずつ改善。中学では生徒会役員も務めるようになった。

 障害は本人はもちろん、家族も事実を受け入れるのに時間がかかる。成育の過程で生じた後天性の場合はなおさら。当初はショックから自分の気持ちさえ否定しがちだ。周囲の支援は、その理解から始まる。

 圭子さんは今、インターネット上で手記をつづっている。「同じような境遇の人に読んでもらえれば。少しでも気持ちに寄り添いたい」

(鎌田倫子)

 

(3)説明と理解 見えぬ後遺症に中傷も/問われる周囲の受け止め

(2012/07/02)

 「うつる」「きもい(気持ち悪い)」「汚い」。中学時代を思い出すと、京都市左京区の大学院生柏木陽子さん(23)=仮名=は、耳をふさぎたくなる。

 柏木さんは3歳の時に脳腫瘍を発症し、中学1年で再発。手術の後遺症で体温を一定に保つ機能が低下した。目に見えない脳の働きが妨げられた場合、本人のしんどさは周りには伝わりにくい。さらに合併症や薬の副作用で太ることもあり、体が弱いのに丈夫そうに見えてしまう。

 学校に配慮を求めると、柏木さんは他の生徒から一人離された。体育館や特別教室への移動も別行動。「何であいつだけ・・・」。逆にいじめはエスカレートした。

 「病気はオープンにしていいから、皆が理解できるように理由を説明してほしかった」と柏木さん。結局、別の中学に転校した。

          ◇          ◇

 「病気の子が帰ってくるんやから」。8歳で発症した京都府宇治市の高校専攻科生根岸智美さん(18)が地域の小学校に戻る時、担任は事前にクラスで説明してくれた。おかげで智美さんは友人らにいつもかばってもらえた。

 ところが2年ほどして状況が変わる。給食を載せた重い台車を「運んでおいて」と押し付けられ、保健室で休むと「ずるい」と言われた。

 病気は治るもの。それが子どもたちの認識だったからだ。実際は後遺症とは一生、付き合っていかなければならない。

 危機感を抱いた母の京子さんは、学校で同級生たちに説明した。水銀の体温計を見せながら「35度以下に目盛りはないよね」と話し始め、「寒いとき、娘は測れないくらいの体温になるの」。原因は、頭の中にスーパーボール状の物ができて、脳から体に命令がいかなくなったからー。自ら描いた図も示した。

 「だから、背も伸びひんのか」。同級生たちは合点がいった様子だった。小学5年当時の智美さんの身長は115センチ。平均身長よりずっと低い。後遺症で脳から成長ホルモンが分泌されなくなったためだ。

 以来、智美さんへの嫌がらせや陰口はぴたりとやんだ。

          ◇          ◇

 相手に応じて表現を工夫したり、タイミングを見計らったり。患者やその家族は進級、進学など環境が変わるたび、病気について説明する必要に迫られる。

 周囲はどう受け止めるのか。それは新たな障害にもなれば、大きな支えにもなる。

(鎌田倫子)

 

(4)卒業後の行き先 多様な症状踏まえ模索/緩やかに地域での生活へ

(2012/07/03)

 「先生、どうして私は喫茶店なの」

 特別支援学校高等部3年の小川菜穂さん(17)=仮名=は今年5月、進路指導担当の教諭に尋ねた。地域の事業所や福祉施設での体験実習が迫っていた。菜穂さんは喫茶店で接客を試みる。

 「『これどうぞ』と話し掛け、注文を聞くのも勉強。(卒業後は)大人の中に入っていくんだから、初めて会う人とのやりとりする力がいるだろう」。菜穂さんは教諭の顔をじっと見詰め、元気よく「ありがとうございました」と頭を下げた。

          ◇          ◇

菜穂さんは7歳で脳腫瘍を発症。2度の治療を受けた後、知的障害児(者)に交付される療育手帳を取得した。

 障害者が就労を望む場合、一般に障害の程度が軽く、単一なほうが就労に結び付きやすい。神戸市内にある社会福祉法人の就労相談担当者は「どんな配慮が必要なのか明確だと企業も受け入れやすい。バリアフリーがその一例」と明かす。

 しかし、脳腫瘍の後遺症は多様だ。菜穂さんは両目の右半分の視野が欠損し、体温調節の機能も失われている。さらに内分泌障害もあり、疲れやすく体調に波がある。身の回りのことは自分でできるが、記憶力や思考力など高度な脳の働きが低下し、健康な人のペースにはついていけない。

 母の久美さん=仮名=は「たまの治療は遠方の病院で受けられても、生活の場は地域。進路にどんな道があるのか」と不安を隠せない。

          ◇          ◇

 特別支援学校では、進路について一般の事業所への就職、作業所や福祉施設での福祉的就労の双方を考える。障害の特性や適性を踏まえて実習先を決め、生徒や保護者との面談を繰り返す。「重要なのはマッチング(組み合わせ)」と教諭。就労先が合わずに離職すれば、引きこもりやうつ状態など新たな問題を抱える恐れもあるからだ。

 菜穂さんに苦い記憶がある。中学の途中まで地域の学校に通っていたが、次第に生活についていけなくなった。「(黒板の)見える部分をただノートに写していた。みんな、訳分かんないことばっかり言っていた」と菜穂さん。自宅でも口数が減り、表情も暗くなった。久美さんは「周囲の理解も得られず、素の自分を出せなくてきつかったはず」と振り返る。

 菜穂さんは、5日間の実習を終えた。「大変だったよ」という声や表情からは充実感が見て取れた。「会話も楽しめたみたい。一歩進んだかな。」と久美さん。地域社会での生活にゆっくりと移りつつある。

(鎌田倫子)

 

(5)自立と就労 福祉と一般雇用のはざま/経験の場をNPOが提供

(2012/07/04)

 「期待と不安が半々です」。8歳で脳腫瘍の治療を受けた京都府宇治市の根岸智美さん(18)はこの春高校を卒業し、通信課程の専攻科に進んだ。修了する2年後、保育士試験の受験資格が得られる。夢への第一歩を踏み出したはずだったが、その表情は複雑だった。

 智美さんは治療の影響で記憶力が低下。授業は理解できるのに、1週間後のテストで問題が解けないことがあった。ただ繰り返しやり直せば、時間はかかっても習得できる。英検3級にも合格。また体温の調節機能が失われ、寒暖の差に体が対応できない。しかし、重度の障害とはいえず、特別支援教育の対象にはならなかった。

 「就職でも企業の障害者雇用枠は期待できず、同年代の元気な子たちと競うので難しくなる。せめて資格があれば」と母の京子さん。

 智美さんも言う。「いつまでも親がそばにいてくれるわけじゃない。何とか道を切り開きたい」

          ◇          ◇

脳腫瘍など小児がん経験者で、後遺症の程度が軽く障害者施策の手が届きにくい一方、健康な人と同様の社会参加は難しい“グレーゾーン”の人たちがいる。その就労支援のため、新潟市のNPO法人「ハートリンクワーキングプロジェクト」は来年5月、市内のビルでカフェを開業する。

 社会保障も完備し、体調に波がある人のために休憩室も儲ける。資格取得のための受講料は半額補助。「自立する意識を持ってもらうためにも全額補助ではない。甘やかし過ぎないこと」と副理事の林三枝さん。カフェで社会経験を積み、一般の事業所での就労を目指す。

          ◇          ◇

実は林さんも長女(28)が7歳で白血病を患った。余命3ヶ月と宣告されたが、今は看護師。「同じような子や家族を支えたい」と2005年、小児がん経験者医療保障の受け皿となる共済制度を設立した。長女も治療後に民間の医療保険に入れなかったためだ。

 だが、大半が継続して治療を受ける脳腫瘍経験者はリスクが高いと判断され、その共済制度にも加入できない。「うち娘は入られへんのか」。恭子さんが制度の説明を聞いて漏らした一言が林さんの胸に引っかかり、グレーゾーンに目を向けるきっかけになった。

 開業予定のカフェは、自社での雇用は難しい企業や個人も、寄付や物品の提供という形で協力する。林さんは言う。「生きていくことは当事者や親の頑張りだけじゃ難しい。無理のないやり方で善意を結集できれば」

(鎌田倫子)

 

(6)支援はどこに/前例ないなら共に考えて

(2012/07/05)

 「きっと、顔も分からないと思います」

 今年2月に2度目の取材を申し込んだ時、大阪府茨木市の石川美優さん(30)=仮名=は、電話口で半月前の前回の取材をほとんど覚えていないことを明かした。実際、待ち合わせ場所では、記者が近づいても周りを不安そうに見回していた。

 石川さんは高校2年で脳腫瘍を発症。後遺症のため、自転車を止めた場所や薬を飲んだ事実など、日常生活の詳細を記憶にとどめておくのが難しくなった。精神障害者保険福祉手帳は「日常生活が著しい制限を受ける」などとされる2級。

 障害基礎年金を受けながら、図書館の臨時職員として週に2、3日働く。

 だが、実はほんの2年前まで、現在は免除されている国民年金の保険料も、医療費の窓口負担も全て石川さんの両親が払っていた。障害者手帳や各種制度について、治療を受けた病院では教えてくれなかったという。

 「(手帳を)取れないはずないよ」。患者会で偶然、似たような障害がある人の家族と知り合い、指摘された。市役所に医師の診断書を提出したら、すんんなり申請は通った。

 「知っているのと知らないのとでは大違い。あの出会いがなかったら、ずっと将来への不安を抱えたままだった」

          ◇          ◇

 既存の制度やサービスにも、脳腫瘍の経験者が活用できるものはある。例えば、後遺症で記憶が定着しにくいなどの症状が現れた場合、発達障害の児童を支援するNPO法人や行政の教育相談などが役に立つ。

 だが、そうした社会資源にはなかなかたどり着けていない。「病気は気管切開するなどした重度の子の対応で手いっぱい。相談しても何の策も返ってこなかった」と中学2年の男子生徒の母親。現在、特別支援学校高等部3年の女子生徒の母親は「目に見えない障害は支援が後回しにされがち。かつて娘が通っていた地域の小中学校には、理解を得るため何度も掛け合った」と振り返る。

          ◇          ◇

 国の次期がん対策推進基本計画に、小児がん経験者への長期支援体制の必要性が盛り込まれた。だが、脳腫瘍はもともと患者数が少ない上、腫瘍の場所や治療内容によって合併症、後遺症はさまざまだ。相談や連携の拠点として期待される病院をはじめ、関係機関には一人一人に即した配慮と対応が求められる。

 「前例がないなら、一緒に考えてほしい」。自分たちのためだけではない。これから病と闘う子も社会の一員になれるよう、患者や家族は訴えている。

(鎌田倫子)

左手で奏でるピアノ(神戸新聞夕刊2012/05/09)

★許可をいただいて転記させていただいております

 

左手で奏でるピアノ(笙太くん)
左手で奏でるピアノ(笙太くん)

左手だけで弾くためのピアノ作品があるのをご存じだろうか。

 

「左手のピアニスト」として知られ、NHKの大河ドラマ「平清盛」のテーマ曲を演奏する舘野泉さんが監修などを務めた楽譜集が好評でシリーズは10冊に

 

脳腫瘍の後遺症で右手が不自由な神戸市の男子中学生も影響を受け、自らの可能性を広げている。(鎌田倫子)

          ◇          ◇ 

左手のピアノ曲は、メロディーと伴奏を、指の使い分けやペダル操作の工夫によって片手だけで演奏する。以前から事故や病気で右手が不自由になった人のために書かれた作品はあり、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が有名だが、その数は少なかった。世界各地で演奏活動を展開していた舘野さんは

2002年に脳出血で倒れ右半身が不自由となったが、04年に左手だけで復帰。

 

自身が作曲家に委嘱したり監修したりした楽譜集「左手のピアノ・シリーズ」は、「音楽之友社」(東京)から05年に出版された。

国内では例のない試みで、一般にはなじみの薄い現代作品が多かったものの、意外にも売れ行きを伸ばしている。左手のピアノ曲は音を一つずつ紡いでいくため、ごまかしが利かず、音楽性や技術の優劣があらわになる。

同シリーズの編集担当者は「作曲家や弾き手にとって、新しい音楽の発見があるはず。両手が使えても左手だけで試す人がいるのでは」とみる。

 

神戸市垂水区の中学2年鈴木笙太君は、こうした作品に影響を受けた一人。

4歳で脳腫瘍を発症し、手術後も右半身にまひが残る。ピアノは、リハビリを兼ねて習い始めた。両手で弾いていたが右手はうまく動かせず義務感もあって楽しめずにいたという。ところが1年ほど前、テレビで舘野さんの曲を聴いたのを機に左手だけで演奏を始めると夢中になった。

「自分に自信がついたのかな」と母の圭子さん。

このほど同市垂水区で開かれたピアノ教室の発表会では、

演奏前に「僕が弾くことで、困難は乗り越えていけるって伝えたい」との思いを舞台で打ち明けた鈴木君。「アヴェ・マリア」を落ち着いた優しい音色で

表現し客席から、ひときわ大きな拍手が送られていた。

 

★この記事は許可をいただいて転記しています 

 

小児脳腫瘍の子どもたち

素敵なところを

たくさんもっています

 

痛みを知っているから…

生きづらさを抱えているから…

みんな心がやさしい

 

マイペースなところ

不器用なところ

ちょっと口下手だけど

素敵なところ

たくさんあります

 

子どもたちのこと

成人した若者たちのこと

もっともっと

知ってもらえたらいいなぁ

できれば家族と一緒に

小児脳腫瘍経験者に 

寄り添っていただけたらなぁ

 

小児脳腫瘍と共に

生きる子どもたち

私たちに軌跡を残してくれた

懸命に生きた子どもたち

私たちの誇りです